敵方を調略して感謝しても良い場面で、あえてその必要なはないとする氏直の性格を、昌幸は掴んでいた。氏直の扱いを知った昌幸は、信尹の知らせをまち、次の手を打とうとするのだった。
7月14日、北条の軍勢は、上野・信濃の国人衆を加え、もともとの2万から3万に膨れ上がっていた。対する上杉景勝は、7000の軍勢で海津城に本陣を置いた。
まもなく、真田昌幸が北条家に加勢したとしった景勝は、上杉に加勢するとわざわざ行ってきた昌幸が早くも裏切ったことに怒りを露わにした。怒る景勝を前に、これまで長きに渡って真田と上杉の間を取り持ってきた弟信尹は、兄とはいえ、もはやこの節操の無さには呆れ果てた戦国の世の習いに従い、息子信春とともに越後で果てる覚悟だと宣言する。
景勝は信尹を信じたものの、側近直江兼続はまだ信用していない様子だった。信尹は信繁とともに春日の調略を急がなければならなかった。
海津城内では、人気のない一角に春日をつれこみ、信繁は春日が武田家でともに家臣であったことを誇りに思っていることを指摘、信尹は北条氏政が上杉との戦いに勝利した暁には海津城を春日に正式に返還することを告げる。
春日信達の父、春日虎綱は香坂弾正と、高坂昌信とも言われ、かつて海津城を守ってきた。武田信玄の重心、武田四天王の1人である。そんな重要な城であるにもかかわらず、上杉家のもとでは、どれだけ働いても、城代以上にはなれないと信尹は春日に訴えたのだった。北条家を勝利に導き、父が守ってきた海津城を取り戻すべし、さすれば武田の無念を晴らすことが出来るだけでなく、かつて城を守った亡き父への顔向けもできるだろうと情に訴えたのだった。
信繁の指摘と、信尹の説得により、春日の調略は成功した。
信濃で最後にして最大の抵抗勢力だった真田を従えた北条は、やすやすと川中島へ布陣する。北条の軍勢と上杉のそれは、千曲川を挟んで対峙することになった。
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北条方の軍議では、昌幸は春日信達とは内通しており、北条が攻めるのを合図に、海津城から春日の兵が背後から上杉を挟撃する手筈になっていることを確認する。
しかし、その直後、7000と目されていた上杉家の軍勢が、1万や2万では足りないほどふくれあがっていたとする目撃情報が、地元の漁師によって氏直の陣営に届いた。この漁師は、変装した佐助だった。しかし、氏直も近くにいた室賀正武もそのことには気づかず、誰もがその情報を信じこんで不安になっていた。
しかも、追い打ちおかけるように、ほどなくして千曲川対岸に、春日信達が磔にされていることが発覚する。春日を調略が成功したはずの昌幸は、策が上杉にバレてしまったのではないかと呆然としながら弁明した。春日の寝返りなくとも上杉に勝つ算段はできていると豪語した氏直だったが、上杉の軍勢が膨れ上がっていること、頼みの春日が磔にされたことで、慌てふためいていた。
動揺する氏直に、昌幸はこういって、攻めかかるよう言った。
昌幸 戦には勢いというものがござる。今なら策を弄さずとも、勝利は我らのもの。相手はたかだか7000、こちらには上杉を圧倒する3万の軍勢がおるではありませぬか。
そう主張する昌幸に出浦昌相も援護射撃するが、あまのじゃくな氏直は、徳川の軍勢が甲斐に入ったという知らせが入ったとして、上杉に手こずっている間に、甲斐を徳川にとられる恐れがあるとして、撤兵の決断をする。氏直は追撃を防ぐために、昌幸を殿(しんがり)にまかせたのだった。
室賀は、遅参しただけでなく、調略にも失敗した昌幸を嘲笑したが、じつはすべて昌幸の計画通りだった。実は、昌幸の言葉の逆をとる氏直の性格をうまく利用し、北条を信濃から排除したのだった。
北条が撤退したころ、上杉景勝は、家臣の新発田重家の反乱を鎮圧するために、越後へ帰っていった。
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