そのころ京に着いた信繁は、信長の死を知ることになる。すぐに松のみに迫る危険を察知した信繁は、急ぎ安土に戻る。
信州真田屋敷には、昌幸が招集した国衆と軍議を開いていた。度々真田に反対してきた室賀正武は、信長が光秀に打たれることを見抜けずに、織田方に味方した昌幸を責め、以後昌幸の言いなりにはならないことを表明した。
ここで昌幸が国衆に示したのが、光秀から送られた密書だった。他の国衆には送られることのなかった、昌幸が焼き捨てさせたあの密書である。そこに記されていたのは光秀からの味方して欲しいとの要請であり、光秀が小県の惣代として自分を選んだのだと昌幸は大声で主張する。言葉を返すことができない正武に対し、昌幸は話を進めた。
昌幸 まずはっきりと申し上げる。信長亡き後の織田に、天下を治めるだけの力はない。よってわれら小県の国衆は、織田を見限ることにした。上杉につく。品のを狙う大名たちのなかで、我らが小県の値打ちを、まことにわかっておるのは上杉だけじゃ。これより我らは上杉の家臣となり、この小県を守る。
国衆との軍議をしていた昌幸は、すでに弟の信尹を上杉景勝のもとへ遣わしていた。上杉家の力を借りて、残存する織田勢を追い払おうとの魂胆だった。
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小県の北にはかつて武田信玄と上杉謙信が5回にわたって戦った、川中島があり、武田家の旧臣であった小県国衆たちにとって、上杉家はもっとも縁の深い大名だった。
上杉謙信から越後を引き継ぎ、4年を迎えた上杉景勝は、謙信の実子ではなかった。しかし、義に篤い性格は謙信にまさるとも劣らないものだった。
家臣の直江兼続が同席する中、昌幸から派遣された信尹と対面した景勝は、昌幸からの書状を見てこういった。小県を預かることは了承する。しかし、織田勢を信濃から排除することについては受け入れなかった。景勝はそういったのは、弱気を助け、強きを挫くのが上杉の家風、いま信長の死に乗じて弱っている織田税に攻撃を加えるのは家風に反するとのことだった。しかし、本音は織田軍4万に攻めこまれ、越中魚津城も陥落し、苦境に陥っていたからだ。信長の死によって助かったものの、とてもではないが、信濃に軍を派遣する余裕はなく、いわば瀕死の状態だったのだ。
小県を預かることは了承したものの、織田勢の駆逐には役立たない上杉を諦めようとする昌幸だったが、そんな時、織田方の滝川一益から招集されることになった。
信長から甲州の先方を任されていた滝川一益もようやく信長の死を知ったようだと感じた昌幸は、北条には不義理をしているので、北条に降るにしても、時間がかかると思い、しばらくは織田方にも顔を売っておくことが得策だとして厩橋城にいる一益に信幸と会いに行くことになった。
実際は、一益はまだ信長の死を知らず、信長が天下を統一する日も近いと信じ込んでいたのであった。度重なる戦闘に疲れたという一益は、昌幸によい湯治場はないかと尋ねるが、信長の死をしる昌幸はそんなのどかな一益にの雰囲気に、信幸ともどもあっけにとられるのであった。
一方で、京から安土に戻った信繁は、松が織田方の兵によって安土城内に連れ去られたことを知る。混乱の最中、三十郎、信誠と松を見つけ出した信繁は、松が放って置けないという20人の人質を引き連れ、、古い井戸から抜け穴を伝って城外へと逃げおおせた。
伊賀越を果たし、なんとか三河岡崎城にたどり着いた家康も命からがらの様子だった。
本能寺の変から2日たった。これから歴史は大きく動き出す。
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