真田丸題5回のあらすじです。
家康の様子
前回で真田家が織田家に服属することが決定した。真田信繁は臣従の人質として差し出す松を送るため、織田信長の本拠地である安土を訪問した。 東国育ちの真田信繁は活気のあふれる華やかな安土の城下町に圧倒されるが、翌日、未明に、一大事が起こる。
天正10年、1582年6月2日の未明、天下統一まで後一歩のところ、織田信長は本能寺で49歳の生涯を閉じた。武田氏を天目山の戦いで滅ぼしてから、まだ3ヶ月のことだった。
本能寺を消失させた明智の軍は、そのまま信長の嫡男信忠がいる二条城も襲撃した。破竹の勢いで日本全国を統一仕掛けた織田の父子がここで、突如として霧消した。
この時堺の見物をしていた徳川家康は、まだ本能寺の変を知らなかった。信長との茶会の予定があった家康は、穴山梅雪と共に、京へ向かうが道中で信長が明智光秀に討たれたことを知った。
信長の死に衝撃を受けた家康は動揺するが、本能寺を襲った光秀が織田方の将に攻め寄せてくる危険を予期した家康は、急ぎ自身の本拠地の三河に戻ろうとする。しかし、堺から船で出航しても、海賊が支配する途中の紀州灘では危険が伴い、北から琵琶湖沿いを通り、東山道に出るルートは、信長を滅ぼした張本人である光秀の領土になる。逃げ道としてはこれ以上危険なものはなく、それは最悪の選択だった。
家康は、混乱する。家臣の本多忠勝は、智将として名高い明智光秀が思いつかないような、意表をついた道を通って、三河へ逃げる他はないと家康に進言する。絵図を見ていた家康はそれを踏まえ、東へ直線的に伊賀を抜けていく道を思いつく。とはいえ、伊賀は山深い場所であり、身動きのとりにくい山道では、落人狩りの格好の標的となる、そのため石川数正も穴山梅雪も、伊賀越えには反対をした。
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しかし、意表を付いたルートを通るべきだと進言した本多忠勝は、誰もが避けるであろう道を通ることが狙いだと家康の伊賀越え案に賛同した。わざわざそんなルートを通るとは明智軍も思わないだろう、と読んだからだ。こうした経緯から、家康の一行は伊賀を越え、三河へとひた走ることになる。
こうして始まった堺から三河への家康の逃避行だが、その道中、穴山梅雪は、家康に、二手に分かれて敵を惑わそうと提案する。腰痛持ちを理由に、山道に嫌気が差した梅雪は、いざとなれば、家康とは分かれ、光秀に降るのも、一つの方法だと考えるようになっていた。やはり、武田氏を裏切った穴山梅雪、どこまでも忠義がない。そんな穴山梅雪は、家康と別れた後、木津川の近くで落武者狩りにあい、はかなくも命を落としたと言われている。
穴山梅雪を別れた家康一行は、伊賀出身の武将、服部半蔵の手引で、伊賀の山中をひた走るのだった。時に落武者狩りに襲われ、時には断崖絶壁を駆け下りるなど、次々と迫り来る南極を切り抜けながら、三河へと急いだ。
※服部半蔵は1542年から1596年まで生きた徳川家康の家臣で、名は正成という。伊賀出身の服部郷出身の忍者である服部保長の子だ。初代の保長行こう、明治時代に至るまで、12代の歴代当主が服部半蔵を名乗った。三河国に生まれ、初代は忍者であったが、家康には武士として心中した。本能寺の変では堺から三河への、とりわけ伊賀の間道を抜ける際の、家康の帰還の立役者となったが、後に秀吉の命で家康が関東に入国した後は、伊賀の同心を支配した。江戸城の半蔵門の名は、門の外近くに、半蔵の屋敷があったことに由来する。半蔵門線として毎日利用している人も多いかもしれない。
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